新世紀幕開けの年も師走を迎たその日。小春日和の陽が明るい。この暢けさ、作品への関心、そしてゲストの魅力から場内は立錐の余地も無い。
今回の作品は1959年宝塚映画 井伏鱒二原作 川島雄三監督の「貸間あり」である。キャストはフランキー堺ほか芸達者揃いだが、既に鬼籍に入った人の多いのが懐かしくもまた寂しい。前作「暖簾」に関わった藤本義一さんがこの作品でも脚本を担当されました。氏は相変わらずのダンデイ振りで会員の求めに応じて自著にサインをされる姿も絵になっていました。
物語はグランドホテルならぬアパート屋敷の群像劇だが、藤本氏が製作発表時の記者会見で「重喜劇だ」と喝破したその表現に相応しい出来栄え。氏は仕事を共にして来た幾多の監督の中で最も面白くて純粋な人物であったと、畏敬と愛惜の念をこめて師川島監督を語る。兼好法師の「萬の事も、始終こそをかしけれ」を地で行った人物であると言を重ねる。ダンデイでシャイな生き方に徹した川島監督、言い得て妙である。脚本を書くに当たっては登場人物の履歴を細部まで練り上げて、出身地・学歴・血液型・干支まで想定した人物像を作り上げて行くことから始まるとの事。然も単に机上の想像に留まらず、身近に存在する人物の実像を重ね合せてその人との語り合いの中から新しい人格を創生させて行く。「貸間あり」創作におけるその対象は藤本義一氏であったようである。人間同志信じ合い通じ合うものが生まれた時、二人の高揚した作品が誕生する。40日缶詰になった二人は、日夜隠す事も恥じも無く、存分に語り合った。川島監督は作中の人物をこよなく愛せと言う。
出会い、嫌さ、素晴らしさ、欲望、別れ。又一人の人間の生態を隈なく描き尽くせ、脚本のコントラストは平面にジグソーパズルを解き乍ら世界を創って行け。出発点で描いた人物の性格は一人か二人を残して、他は終った時には変えた方が良い。生涯に一作でも得心の行ったものが描けると言うのは清濁併せ呑んだ複数の中から生まれるのだ。これらが基本であり監督としてのイズムであり川島監督の人間性である。藤本氏はこの教えを守った。
又川島監督が二作ほどの映画化ですっかり意気投合した織田作之助の、急死した寒夜にガラス状に凍てついた見舞いに携えた50本のバラの花びらを、絶望と寂寥の中、路上で全て食べてしまった挿話。それが川島監督の誇張であると判っていても憎めない人柄に、藤本氏も余すところ無く自分を裸にし続けた。浪速ッ子の意気と商人道に徹した父の事、G.I.のジープに撥ねられた母への想い、闇市少年時代の事。その度に川島監督は「それからどうした」と問い続けた。藤本氏は、宿痾と死神に苛まされた川島監督の口惜しさを我が身に転じて「生きいそぎの記」のペンを執った。
映画「貸間あり」を観て笑い、藤本氏の講演ではその照れも気取りも無いパーソナリテイの虜となって場内は和気に満ちていた。幾多のジャンルの作品を手掛けて来た川島監督は、時代時代によって特定のスタッフ・キャストを偏愛と呼びたい位の結び付きで組、作品を昇華させ相手の才能を開花させたと聞く。「暖簾」「貸間あり」、当時の藤本氏はまさにその頂点に在り、川島監督が愛した逸材であったに違いない。
その藤本氏が講演の最後に、52本に及ぶ川島監督の作品群の中で最高傑作と激賞した「須崎パラダイス 赤信号」。折を見て鑑賞の機会を得たいものだと思った次第です。
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