梅の花が咲く季節となった2月20日(木)、国立映画アーカイブ(京橋)にて「監名会第143回」が開催された。黒澤明監督『影武者』(1980年)は、武田信玄の影武者となった男の数奇な運命と、戦場に散った家臣達の艱難辛苦を描いたスペクタクル巨編。第33回カンヌ国際映画祭のパルムドール受賞作品でもある。
上映後のトークショーに本作撮影監督の上田正治さんを迎え、元キネマ旬報編集長で映画ジャーナリストの植草信和さんがインタビュアーを務めた。司会進行は俳優の竹内千笑さん。『影武者』のタイトル文字の真紅を思わせる赤いニットにジーンズ姿の上田さんは「今時の作品とは格が違う。こんなすごいことをやっていたのかと自分でも驚きました」と微笑んだ。
今も語り継がれる撮影開始後の勝新太郎から仲代達矢への主役交代劇に関して、上田さんは「監督は2人いらない」という黒澤監督の言葉を引用。「黒澤監督は、準備段階では役者と相談するし意見も聞くタイプ。次の段階に進み、スタッフ陣を現場に入れたリハーサルでは、役者達に『完成した芝居』を求めたのです」と、リハーサルでも検討を重ねることを望んだ元主演俳優との見解の相違を解説した。
撮影現場では、黒澤監督やメインキャメラ担当の斎藤孝雄さんからの指示は一切なかった、と上田さんは振り返る。植草さんに「印象に残っているシーン」を問われた上田さんが挙げたのは、夕日を背景に武田軍が陣地へと戻る場面。複数のキャメラの中で、上田さんだけが落陽を適確にとらえ、そのシーンが本編に採用された。さらに「最大の見せ場」については、冒頭の城の石段を使者が駆け下りるシーンを挙げた。密集した兵士達の間を縫って猛スピードで走り抜けたのは、黒澤監督が指名した体育系大学のアメリカンラグビーの選手。「黒澤監督は適材適所に人を配置することを常に考えていました」と上田さん。カンヌでも話題を呼んだ、終盤、戦場で瀕死の馬達が悶え苦しむ場面は、麻酔を打たれた馬が目覚めかけると暴れ、下敷きにならないように周りの死体役の人間が脇へ避けるため、撮影現場では「死体は動くな!」と檄が飛んだという。
時代劇は制作費が膨れ上がるのが常。本作は、黒澤監督を「師匠」と慕うフランシス・コッポラ、ジョージ・ルーカスが外国版プロデューサーに名を連ねたことで東宝から膨大な制作費の捻出が可能になった。上田さん曰く「黒澤作品は封切り収益では元はとれない。でも、40年経つ今も観客から要望がある。長い目でみると商売になるのです」。「黒澤監督の仕事から学んだ」ことは、映画「編集」の重要さだという上田さん。複数キャメラのカットが全て失敗という時も、黒澤監督は巧みな編集で繋いでみせた。
上田さんの新作は、黒澤監督の最後の弟子と目される小泉堯史監督『峠 最後のサムライ』(今秋公開予定)。小泉監督の「『映画』になっている」という言葉に注目していた植草さんが、そこに黒澤監督の因子を感じると指摘すると、上田さんも「小泉監督には『こだわり』がある。下手なものを撮ると恥ずかしいという気概のある監督です」。「今の日本映画」を憂える上田さんは「撮影技術は消え、跡継ぎが育っていない。現代のデジタル撮影は、撮った後に画面から邪魔なものは消せばいいという考え。昔のフィルムの現場は、まず撮りたい場所を決め、時代設定に合わない電柱があれば、電柱をどかして配線を回した。撮る『場』を丁寧に作り込む、その『精神』がないと技術も育ちません」。
植草さんの「今の時代は『映画』が生まれにくいですね」という言葉に、上田さんは「『映画』的な表現の好例として『第三の男』のオーソン・ウェルズの足のみの印象的なカットを挙げ、「キャメラを漠然と回して面白い箇所だけ切り貼りした昨今の作品は『映画』ではない」と断じ、「『影武者』は将に『映画』です」と太鼓判を押した。「今も『影武者』を観たいという人達がたくさんいる。この作品に参加できたことは本当に嬉しいです」。今後についても「使ってくれる人が居ればやりたい」と心強い言葉で締めくくった。 映画の在り方が変遷する今日、日本映画の黄金時代を築いた黒澤監督の息吹を体感する機会は貴重だ。失われつつあるその遺伝子が受け継がれた新作の公開に希望を見い出しながら、上映会は閉幕した。 |