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第016回 「進富座(三重県伊勢市)」代表 水野昌光さん
「駅前商店街と映画館」
 列車に乗って見知らぬ街を訪れると、最近寂しい思いをすることがあります。それは、駅前のメインストリートに並ぶ無言のシャッターを目の当たりにする時。かつて、それらの商店街の中心には映画館があり、華やかな映画宣伝看板が色を添えていたものでした。しかし地方都市を中心に、買い物は大型ショッピングセンター、そして映画はシネコンというふうに車中心の社会になりつつあります。そんな中、人口10万人の伊勢市にある近鉄宮町駅近くに半世紀の時をこえて映画を灯し続ける劇場、進富座があります。今回はこの劇場の代表、水野昌光さんにお話をうかがいました。

「町の芝居小屋」
 最初は、芝居小屋としてスタートした進富座。その歴史は戦前にまで遡ります。その芝居小屋の経営を受け継いだのが水野さんの曾祖父。それは昭和2年のことでした。芝居小屋であった頃は、歌舞伎の公演もあり、地域の娯楽の殿堂として多くの人々で賑わっていたそうです。当時を偲ぶものとして、手書きの出演者一覧が、現在の進富座ロビーに飾られています。そして戦後、日本映画が全盛を迎えようとする昭和28年、進富座は映画館に模様替えします。水野さんが生まれたのは、その映画全盛期の昭和33年。
「考古学に魅せられて」
 進富座の4代目として生をうけた水野さん。しかし、子どもの頃からずっと家業を継ぐ気持ちはなく、「父も別の仕事をしていて、3歳の時に信州に引っ越しました」。少年時代に進富座は、お盆とお正月に帰ってくる帰省先としてのイメージしかなかったそうです。中学、高校と進むうちに映画とは別のものに興味を抱き、その勉強に没頭し始めます。それは考古学。関西大学に進学した水野さんは学芸員を目指しました。大阪の教育委員会では発掘作業にも従事し、考古学研究の一歩を歩み始めます。そんな矢先の昭和55年、長らく進富座を守り続けていた祖母を助けるために、ご両親は帰郷します。その時、水野さんも同行することに。「地元の東海地方でも考古学を続けたくて、名古屋市博物館の採用試験を受けたこともあるんですけど」、やがて水野さんも映画館の経営に関わっていきます。当時、東京では、アート系の作品を公開するミニシアターが勃興し始めた頃でした。
「劇場経営の楽しみ」
 平成2年の晩秋、三重県伊勢市のこの劇場には、東海地方の映画ファンが遠路はるばる集まってきました。中部地方の中核都市名古屋で、未公開のテオ・アンゲロプロス監督の「霧の中の風景」(フランス映画社配給)が、東海地方で先駆けて公開されたのです。長らく東映の封切館であった進富座で、東京のミニシアター系の作品も公開されるようになったのは昭和50年代の終わり頃のこと。「最初は手伝いのつもりで働いていたのですが、次第に映画館の仕事に興味がわいてきて」、水野さんが関心を持ったのは大劇場でロードショー公開されていないアジアやヨーロッパのアート系作品でした。当時それらの作品は、東京などの大都会でしか劇場公開されていませんでした。「良い作品をかけてくれてありがとう!」観客が喜んでくれる姿を見た時、水野さんは仕事としての映画館運営にやりがいを感じたそうです。「趣味が映画ではないので、映画なしでも生きていけるけど、映画館という空間なしでは生きていけない、そう思い始めました」。
「車社会の今、あえて街の映画館を」
 進富座には会員組織があり、毎年300名もの映画ファンが入会しているそうです。「入会されたお客様への約束として、会員期限の一年間映画館を守り続けよう、毎年そう心に誓っているんです」。三重県も車社会が進行し、県内の多くの街から映画館は消えていきました。正直なところ進富座の経営も決して楽ではないとのこと。そんな劇場を支えてくれるのは、会員をはじめとする観客の皆さんです。「今の世の中へのアンチテーゼかもしれませんが、車が無くても来られる街の映画館を残すことに意義があると考えます。それはエコロジーにもつながると思います」。お話を伺った後街の商店街を歩きながら、街の映画館というのはそこに住む人々(老若男女をとわず)の心を豊かにする大切な空間なのだ、その思いを強くしました。
(文:木村昌資)
【進富座:http://www.h5.dion.ne.jp/~shintomi/





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