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2018年8月18日

第137回 「山河あり」

おはなし:俳優  石濱 朗  さん  
インタビュアー:俳優  弓家 保則  さん

 30度を越す猛暑が緩んだ8月18日(土)、「監名会第137回」が開催された。会場は国立映画アーカイブ(京橋 旧フィルムセンター)の小ホール。名匠・木下惠介監督の門下で実力を磨き、抒情豊かなヒューマニズム溢れる作風に定評がある松山善三監督の『山河あり』(1962年)が上映された。
 大正7年、日本人移民団がハワイへと向かう船上。遠ざかる富士山を眺める夫婦、井上義雄(田村高廣)きしの(高峰秀子)は、農園の労働に従事する郷田久平(小林桂樹)への嫁入りのため乗船したすみ(久我美子)に出会う。苛酷な労働に耐え20年、井上家は晴男(早川保)と明(ミッキー・カーチス)、郷田家は一郎(石濱明)とさくら(桑野みゆき)、それぞれ2人の子供に恵まれ、安定した生活を手に入れる。一方の祖国 日本は満洲事変、日中戦争に突入し真珠湾奇襲へと向かう。2つの祖国を持つ人々の苦悩が描かれる。
 上映後のゲストに、日系2世として日本を敵とする2世部隊に志願し、最前線に身を投じる郷田家の長男 一郎を演じた石濱明さん(第78回、第88回、第104回、第116回、第131回にゲスト及びインタビュアーとしてご参加)、インタビュアーに俳優の弓家保則さん(第65回、第71回、第76回、第111回、第112回、第131回にゲスト及びインタビュアーとしてご参加)をお迎えした。司会進行は俳優の竹内千笑さん。

 登壇された石濱さんは、ピンクのシャツにネイビーのジャッケット、そしてスニーカー。終戦記念日が近いこともあり上映作品に本作を推したという。久々に自らの出演作を鑑賞し終え、「時代が激しく移り変わる様を息も付かせぬリズムで描きった作品だと感じた」。 公開の昭和37年(1962年)は戦後17年。当時はまだ生まれてなかったという弓家さんの「その頃は海外に行くこと自体が夢のまた夢だったのでは?」との問いに対し、石濱さんは「確かに日本がまだまだ立ち直りの途上にあった時期でしたね。夏にはハワイアンが流行り、私も好きでした。初めての海外でしたし、仕事でハワイに行かれると聞いて、嬉しくて心臓の動悸が高まったほどでした」。 公開前年の年末にハワイで撮影が開始し、日本での撮影も含めて約1ヶ月半。実在の日系2世の方々から歓待されたハワイでは、巨大なショッピングモールを訪れたり、当時の日本にはまだ導入されていなかったオートマ電化製品などに触れ、アメリカ文化の成熟度に衝撃を受けたという。「映画には悲しいシーンがたくさん出てきましたが、ハワイロケで苦労した記憶は無く、私自身は楽しくて楽しくて仕方なかったです」といたずらっぽく石濱さんは微笑んだ。
 共演した女優陣に話が及び、僅か4歳年上の久我美子さんについて石濱さんは「恋人同士や義理の姉さんの役での共演はありましたが、歳の離れた親子の役は初めてでした。でも、特に意識もせずにお互いに自然に親子の役が出来ましたね」。 高峰秀子さんについては「カメラの前で芝居をしている時は特にうまいとは思わないのですが、フィルムになったものを観るとうまいなあと感じる。普通にやっているだけなのに作品になると素晴らしい。目立たないけど、ちゃんとした芝居をしている女優さんだと思いました」。
 本作は監督はじめ企画から撮影まで木下恵介監督門下の木下ファミリーが固めた。石濱さんは16歳で木下監督作品『少年期』でデビューして以来、木下ファミリーと縁が深い。デビュー後すぐの夏休みは、木下監督の招きで九州の呼子に逗留し、木下監督と松山監督と3人で朝から晩まで映画の話をして過ごしたという。木下監督が松山監督に「1日1行でもいいから必ずシナリオを書け」と厳しく指導する姿を見ていた石濱少年は、当時は俳優ではなくその場すべてを仕切る監督になりたかったという。
 戦火のもとで引き裂かれた人々の切実な思いを追体験させる本作。当時の記憶が急速に風化しつつある現代に警鐘を鳴らすととともに、日本映画の輝く黄金時代を改めて想起させる貴重な上映会となった。

(文:菅原英理子 写真:岡村武則)





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