インターネット エクスプローラーダウンロード
推奨環境:IE5.5以上



 HOME > 館主さんを訪ねて > 連載記事


第007回 「浅草新劇場」会館長 大窪茂さん
浅草六区興行街の一角にある老舗劇場、浅草新劇会館(昭和11年築 浅草新劇場・浅草世界館・浅草シネマを擁する)の会館長を務める大窪茂さんに、浅草新劇場の事務所でお話を聞きました。

興行の町 浅草で半世紀
 大窪さんの映画興行人生の出発は昭和30年(1955年)のこと。「毎回毎回、超満員。お客様の列が劇場の周りに何周もできたり、売上金を入れる一斗缶はすぐ一杯になったりと。その頃は入場券は手売りだったから、一分間に何枚売れるか競争したりしました」当時の様子をそう語ってくれる大窪さん。その当時、浅草は東京一の繁華街。そしてその繁栄に貢献していたのが映画館でした。時あたかも日本映画の全盛期。映画館はまさに娯楽の殿堂でした。その頃は、一本の映画プリント(フィルム)を複数の劇場で掛け持ちしており、一巻(十数分)ごとにカケモチ屋という人がフィルムを自転車で運んでいたとのこと。営業係として入社した大窪さんにとって、劇場内での接客はもちろんのこと、プリントを掛け持ちする他の劇場やフィルム倉庫の人々と折衝して、少しでも良い環境で映画を上映させることも重要な仕事だったそうです。
映画興行界の変遷
 しかし、テレビの登場や娯楽の多様化によって、映画興行の世界も転換期が訪れます。昭和36年をピークに観客数は下降をたどるようになりました。そして、昭和40年代になると大手映画会社が倒産する事態も。そんな中、浅草一の劇場と言われた大勝館がボウリング場に改装されました。
「本当に惜しかった。ロビーにはステンドグラスがあり、床も大理石で。建築遺産としても貴重なものだったのではないでしょうか」青年時代の一時期、大勝館に勤務していたこともあった大窪さんにとって、大勝館の閉館は大きな衝撃であったそうです。
どんな方でも大切なお客様
 ここ数年、全国の映画館総動員数は少しづつですが上昇しつつあります。それには外国資本と提携したシネマコンプレックス(複合型映画館)が大きな影響を与えていることは否定できません。しかし、大窪さんは昔ながらの映画館(活動小屋)のスタイルにこだわり続けています。「誰でも気軽に入れて、くつろいでもらえたら。映画館とは映画だけでなく、時間と空間を売る商売だと思っているんです」 時間が空いた時、ぶらっと入れるような親近感のある劇場を大窪さんは目指しているそうです。そして、時代の変遷とともに、客層も変わりつつあるとのこと。バブル時代は、仕事を終えた日雇い労働者がくつろぎに来たそうです。そして今、新しい客層も。「最近、背広姿のお客様が毎日いらっしゃるんです、午前中から夕方まで。どうやらリストラされた方が家族には言えずに、会社へ行くふりをしていらっしゃるのでしょう」、大窪さんは、訪れるお客様を温かく見守りながらそう語りました。大窪さんの映画館人生は、来年で五十年を迎えます。
(文:木村昌資 写真:竹下資子)
【浅草新劇場:03−3841−2815】





組織概要   入会案内   個人情報保護指針   よくある質問   お問い合わせ

Copyright (C) 1981 - CurrentYear MCAC All rights reserved.
 
Powered by L-planning