第008回 「シネマスコーレ」支配人 木全純治さん |
万博開幕を目前に控えて活気づく愛知県。その玄関口、名古屋駅新幹線のホームから、歩いてすぐのところに個性的なミニシアターがあります。それは、地元名古屋では、「亜細亜映画ならスコーレ」と言われるほど、中国、香港、韓国と亜細亜映画に力を入れているシネマスコーレ。今回は、開館当初から支配人として劇場運営に携わっている支配人の木全純治さんにお話を伺いました。
「一番安い娯楽が映画だったから」
木全さんが大学生活を送ったのは学生の街、京都。時代は1960年代後半から70年代初頭。当時の学生にとって、「映画」は一番の安い娯楽であり、木全さんは毎週のように京都の名画座、京一会館に通います。
そんなある日、1本の映画と出会いました。それは『赤い殺意』(今村昌平監督作品)。哲学を専攻していた木全さんは、この一本の作品から自分の生きる道の啓示を受けます。そう、映画の道へ進もうと。 |
「営業部員求む。文芸座」
大学卒業後、木全さんは映画の道を志して上京。「しかし、どうやったら映画界に入れるのか、その術が全然分からなかった」そう語る木全さん。当時(74年)は、大手映画会社のほとんどが新規採用を停止していました。そんな中、立ち寄った映画館の扉に張られた求人広告を目にします。早速、応募し採用されることに。その映画館は名画座の殿堂、文芸座。木全さんの映画人生の第一歩が始まります。
もともと、日本映画ファンであった木全さんは、日本映画の営業担当に。ビデオのまだ普及していなかった当時、名画座は映画ファンで賑わっていました。劇場の現場でお客様への接客応対をするとともに、ファンに納得してもらえる番組を編成していくことが木全さんたちスタッフの仕事。「鈴木清順監督作品や、日活アクション映画に東映やくざ特集、そしてにっかつロマンポルノの特集を組んだり・・・」それは、映画ファンでもある木全さんにとって充実した日々でもありました。しかし、転機が訪れます。結婚を期に、故郷の名古屋に戻ることになったのです。上京後4年の月日が流れた78年のことでした。 |
「名古屋発のアジア映画を!」
名古屋に帰り、ビデオ販売業に従事する。しかし、またもや転機が訪れます。名古屋でミニシアター開設を構想していた若松孝二監督と出会い、83年、若松監督が社長を務めるシネマスコーレの支配人に抜擢されます。「メジャーな劇場では上映されない、インディペンデントの良質な作品を上映したい!」との思いで、木全さんは番組編成に臨みます。その時、注目したのが中国や韓国をはじめとするアジア映画。それは、「韓流ブーム」の真っ只中の現在よりも20年以上も前のことでした。「実際、当時は韓国映画の興行成績は厳しかった・・・」そう語る木全さん。しかし、根気強く、アジア映画の上映活動を続けます。やがて、自ら中国、韓国、そしてトルコ映画の配給も手がけ、99年には劇場の向側にあるビルに、アジア映画の雑貨店「アジアスーパーシネセンター」を開きます。
「一映画ファンとして、お客様に納得していただける作品を上映していきたい」この木全さんの言葉から、映画館を運営することは、映画をつくることと同様に、クリエイティブな仕事であると言うことを痛感しました。 |
(文・写真: 木村昌資) |
【シネマスコーレ:http://www.cinemaskhole.co.jp/】 |