第015回 「テアトル新宿」支配人 柴崎聡さん |
銀幕を守り続けて50年
今、全国的に映画興行界に大きな変動が訪れています。それは、複合型映画館(シネマコンプレックス=シネコン)の相次ぐ新設と、従来の駅前型映画館の衰退。都内有数の映画館街である新宿にも、その流れにそうような形で映画館の再編が進んでいます。それに伴い、長年映画ファンから親しまれてきた劇場、新宿東映会館、新宿松竹会館等が惜しまれながら幕を閉じていきました。そのような中、約半世紀に渡って映画の灯火を守り続け、今も日本映画を中心に話題作を発信し続けているテアトル新宿。今回はこの劇場の支配人、柴崎聡さんにお話をうかがいました。
学生時代の居場所が職場に
茨城県の高校を卒業し、大学進学のために上京した柴崎さんにとって、身近な娯楽は映画鑑賞でした。「下宿先が中野であったため、よく新宿の映画館に来てました。その中でも多く通ったのが、今の職場の新宿テアトルでした」。当時(昭和50年代半ば)テアトル新宿は名画座、「映画と言えば、地元の劇場で大作しか観ていなかった自分にとって、テアトル新宿で上映される作品は新鮮でした」。その頃に観た作品の中で印象に残っているのは「ブレードランナー」や「ブリキの太鼓」だったそうです。やがて大学卒業を控え、テアトル新宿を経営する東京テアトル株式会社を受験、「テアトル新宿に通っていました」という面接試験での一言が、当時の人事部長の琴線に触れ見事合格。それは今から22年前のことでした。
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飲食業界から劇場現場に
映画好きで入社したものの、最初に配属されたのは飲食店の労務管理をするセクション。「正直、戸惑いもありましたが、生計をたてていかなければいけなかったので」その部門で5年間の経験を積んだ柴崎さん。しかしこの経験は、後になってサービス業としての映画館運営に大いに役立ったそうです。そして迎えた平成元年、晴れて映画館に配属されます。場所は、テアトル宇都宮、「日劇系の洋画封切館でした。話題作を上映している時は、連日のように満員御礼」。その頃上映した作品の中で、特に印象に残っているのは「バック・トゥー・ザ・フューチャー2、3」に「ゴースト ニューヨークの幻」とのこと。劇場勤務を通して、現場での接客に映写業務、それに販促などの営業、さまざまなことを先輩から学んだ中で、今でも肝に命じていることは「映画館にとって一番大切なことは、お客様をがっかりさせないこと。映写トラブル等をおこさずに映画を気持ち良く観ていただくこと」という言葉でした。このテアトル宇都宮は、日本で初めてドルビーSRを導入した劇場で、そのたち上げの現場も、柴崎さんはみることができました。スピーカーなどの音響システムだけでなく、建物の構造から出発していくドルビー社の姿勢に、音のプロとしてのこだわりを垣間見ることができたそうです。 |
シネコンにはできない、ムーブメント発信劇場を目指して
来年50周年を迎えるテアトル新宿。シネコンが台頭する中、単館劇場ならではの持ち味を追求している柴崎支配人が、特に気をつけていることが2点あるそうです。1点目は、お客様への心遣いのある劇場。映写トラブルゼロを目標と掲げるとともに、もし何かあった場合は、誠実な対応で万全を尽くすこと。そしてもう1点は、劇場からお客様へ映画の楽しみを伝えるムーブメントを発信する、ということ。古くは伊丹十三監督のデビュー作「お葬式」をはじめ、数々の若手監督の作品を世に送り出し、感動のムーブメントの発信源となったテアトル新宿。「50周年には、この劇場から世に出た作品の特集上映ができれば」、そう語る柴崎さんの姿に、数字だけで計ることのできない、映画を写す喜びを垣間見ることができました。 |
(取材:木村昌資) |
【テアトル新宿:http://www.cinemabox.com/schedule/shinjuku/index.shtml】 |